2012年08月30日

ガンちゃん;美しいものを美しいと感じること

美しいものを美しいと感じること

プラトンは次のような美しい神話を語っていたようです。
「人間の魂は、かつて天空をかけめぐり、真理そのものを見ていました。ところがある時、足を踏みはずして地上に落ち、人間の肉体に埋まってしまいました。ですからこの世で美しいものを見ると、かつて見た美そのものを思い出して、胸の内に熱いものがこみあげてきて、懐かしいそのもののほうへ行こうとするのです。」哲学の歩き方 竹内 均 参照

天空は霊天上界のことであり、真理とは「イデア」のことだと考えます。地上に生まれ変わって魂が肉体に宿っても、人間の魂は天国にいた時に体験した美しいものすべてを、魂が覚えていて、地上にある美しものすべてを見た時に、魂の郷愁として美しいと感じとることができるということを、上記の神話は語っていると思います。
ですから、地上にあっても、美しいものを美しいと感じとることができるということは、天国にいた時の記憶を思い出しているという点で霊的なことではないかと思います。

プラトン的に解釈するならば、本当の美しさやすべての善きものは、天上界にあり、この地上はその天上界の光の一部を表現している世界、あるいはイデアの模像(影)でしかありません。
その不完全な世界において、天国にある美しさを表現しようとするが芸術であり、具体的には音楽であったり、絵画であったり、彫刻、クラシックバレエ、その他であると思うのです。

ですから音楽にしても絵画にしても、心が天国の方向に向いていなければ、本当に美しい音楽や芸術を表現することはできないのかもしれません。
自分の肉体ですら、心の傾向性を表現していると思います

参照
年を重ねるごとに内面と外面が一致して・・・
http://swedenborg-platon.seesaa.net/article/287809986.html

また、ピタゴラスも天上界や人間の魂についての考えを持っていました。
ピタゴラスといえば、「宇宙の秩序と調和は、数学の原理に基づいている」というような考えを持った方であったと思います。
また、音楽の中にも数学的な理論と調和を見出し、ピタゴラス音階という音楽理論や十弦琴や七弦琴をつくったような方です。

魂についてピタゴラスは、「人間の魂は肉体にはいるまでは、神々の近くで暮らしているのですが、人が生まれるとその肉体に閉じ込められてしまいます。魂にとって肉体は牢獄のようなものです。しかし、人が死ぬと魂は肉体からはなれて、ふたたび神々のもとへ帰ってきます。
そして、次の新しい肉体にはいるまでそこにいて、前の肉体にいたときの犯した罪をきよめるのです」
哲学の歩き方 参照

魂的にはピタゴラスは理数系の最前線の方のように思えますが、音楽に関しても才能があったようです。
また、客観的証明ができない霊的世界や魂の本質についても理解しているのですから、尊敬するしかありありません。

数学や哲学のような理論的思考の持ち主であろうと、音楽や芸術のようにインスピレーション的な感性の持ち主であろうと、根本的に心の方向性が天国に向いていなければ、すべてが美しさという価値基準から外れてしまうのではないかと思います。


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2012年08月27日

ガンちゃん;神秀と慧能、修行は地道なものだと思う

神秀と慧能、修行は地道なものだと思う

大悟の法には、神秀と慧能の修行について書かれていたと思います。
五祖弘忍が『依鉢を譲る』ということで悟りの試験をしました。自分自身の悟りの内容を言葉に書いて出してみなさいということで、内容が五祖弘忍の考えと近ければ次の後継者になるということです。

神秀の書いた偈の内容を要約すると、「身体は大事な菩提樹だし、心は大事な鏡なのだ。だから、心境を磨かなければならない。体も心も、大切に手入れをして、塵や垢や埃がつかないようにしなければならない」大悟の法講義・自力と他力参照
オーソドックスな詩で、地道な努力を要求している内容であると思います。
一方の慧能の偈の内容を要約すると以下の通りです。
「菩提の樹などない、鏡もない、本来は無一物。どこに塵や埃をつけるのだ」という内容です。
これは仏教の『空』の思想に関係していると思えます。

神秀と慧能を比較すると、神秀の方が忍耐と努力を要求する修行内容に対して、慧能は地道な努力、修行に関しては、重要視している感じをあまりうけません。

しかし、人間にとってどちらが正しい修行内容であり、魂の進化にとって大事なことであるかと考えてみますと、自分は神秀の修行論の方こそ王道であると考えます。

空の思想は縁起とも関係してくるので、仏教にとって大事な教えであることは間違いありません。ナガールジュナの中論には、空の説明の一つとして次のように書かれています。
「淨に依存しないで不浄は存在しない。それ(不浄)に縁って淨をわれらは説く。ゆえに淨は不可得である。不浄に依存しないで淨は存在しない。それ(淨)によって不浄をわれらは説く。ゆえに不浄は存在しない。」
要約しますと、淨と不浄とがそれぞれ自身の本質(自性)を持つならば、淨は不浄をはなれても存在し、また不浄は淨とは独立に不浄として存在するはずです。しかし、淨も不浄もともに自然的存在の「ありかた」であるから、独立に存在することは不可能である」空の論理 中村元参照

存在が本質的な不変性を持つのであれば、他に依存しないで自立的であるということです。
ゆえに、この世の存在は仮のものであり、過ぎ去っていくものに執着してはいけないという教えであると思います。

しかし、神秀の偈の内容は仏陀の修業論とおなじものであり、仏陀も地道な努力を要求していたはずです。人間はどうしても肉体の欲望に引きずられますから(もちろん自分も含む)、この世の存在のはかなさを教え、霊的世界こそ実在の世界であり、人間の本質も霊的存在と教えるために、この世を否定する空の思想が大事であるのだと考えます。

それを地道な努力や忍耐、毎日の積み重ねが大事な勉強をしない理由に空の思想を持ってきたら、それは自分の怠け心の言い訳にしかすぎません。

これは人を驚かすような突拍子もない内容を書いて人をひきつけたり、意味不明な内容を書いて人を煙にまいたり、自己の正当化にはしったりすることはあまり良いことではないということです。

「多く説くからとて、それゆえにかれが賢者なのではない。心おだやかに、怨むことなく、恐れることがない人、かれこそ<賢者>と呼ばれる。ブッダの真理のことば・感興のことば参照

大事なのは、その言葉の内容であると考えます。



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posted by ガンちゃん at 22:59 | Comment(2) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする