人を指導する立場の人は、正邪を分かつ価値判断を持っていなければなりません。また、正義(法)とはなにか、神や仏のお考えはどこにあるのか、常に神仏に立脚した価値判断をしながら、善悪を明確にし、指導する、それが先生の立場であると思います。
人の心を傷つけることが一体どれだけ罪深いことか考えたことがあるのでしょうか。
ドイツ観念論哲学者のヘーゲルは、『この世で正義(法)ほど高貴なものはありません。正義(法)の基礎は、神が思いのままにしつらえた自由にあり、正義(法)としてあるのは、神の世界が現実化したものであって・・・』法哲学講義より と述べています。
神の世界の秩序や正義を、この三次元という物質世界において具現化するために、法というものが存在していると、自分は解釈します。
唯物論的な考え方を基礎として持っている人達が、勉強ができるという理由だけで、先生という立場にたち、子供が苦しんでいる気持ちが、全く理解できないで、ただただ自分の立場を守るためだけに、他を犠牲にしても、何とも思わない人間、もはやそのような人間は、先生という以前に人間としてもかなり獣に近い存在であり、人の前に立つべき存在ではないと思います。
被害者の生徒がいじめを受けているにもかかわらず、「先生は一度注意をしたけど、その後は一緒に笑っていた」と言われています。
一体、どれだけ気持ち悪い顔で薄笑いをしていたのでしょうか。気分が悪くなってきます。
人の不幸をみて喜ぶ気持ちは、宗教的にはもはや悪魔です。
たしかに、誰しも人の不幸をみて相対的に自分が幸福になったような最低レベルの感情は持っていると思うし、自分にもそのような弱い心があることは認めます。
しかし、建前で一度注意し、後は一緒に笑っていたとは、先生以前に基本的人間として、人の前に姿を現すべきではないと思ってしまいます。
悪魔も勝ち誇ったように、本当に邪悪に満ちたいやらしい声で、高らかに笑い続けます。
デヴィ婦人のブログを拝見させていただきましたが、このように言われていました。
『校長をはじめ 先生方にも 解雇などの 厳罰を与えるべきです。
むしろ 自ら辞職するべきです。
このような 世間体や 自分達の事情しか考えない
だらしない 役立たずの 学校、 教育委員会、 警察に対し国民の大切な税金が 使われていることに非常に 腹立たしく 憤りを感じます!!
この事件に関わった 加害者の少年達、 学校、教育委員会、警察全てに責任を問い 罪を償わせるべきです!!!』と述べられていました。私も心情的には同じです。
本当の人権とは、犯罪者を守るためのものではないはずです。日本の人権とは、本当に中身が薄い、表面的な人権で、亡くなられた被害者はすでにしょうがないから、加害者のこれからを考えて、加害者に有利になるような法律です。
いくら少年といえ、全く相手の気持ちが理解できずに、いろんなところで書かれているような、非人道的な行為をする人間に人権など適用するべきではありません。
厳重に処罰するべきです。
ヘーゲルの法哲学講義から引用すると次のようになります。
『刑罰が痛みとして感じ取られることは、法全体の前提事項であって、裁判所は、感じ取れないとわかったなら、感じとられるようにしむけます。たとえは、大金持ちには罰金刑は何ともないが、損害を与えたことが有罪とされ、不法を働いたと宣告されることが、痛みとして感じられます。罰せられたものが痛みを感じず、刑罰を軽蔑する場合には、裁判所が感じ取れる刑を課すのが理にかなっています。
殺人の場合もそのような配慮が必要なばあいがある。例えば、死刑に処するような殺人が行われたとして、殺人者は人生がつまらないといった厭世気分から、特に宗教的観点からして、死の準備をし、永遠の淨福を獲得できる気分に身を置くだけの時間がある、と信じたがゆえに、殺人を犯したとする。そんなとき、殺人者の意思はすでに人生の外へと出ていて、死刑も痛みも感じ取れないから、犯罪者の意思を攻撃するには、死刑を懲役刑に変えるのが理にかなっています。』と述べています。
犯人が、痛みを伴う罰を通して自分のおこした行為を反省しなければ刑罰といっても意味がないということです。
ハムラビ法典に「目には目を、歯には歯を」と書かれているように、加害者の少年達、学校、教育委員会、警察、かかわったすべての人達に厳重に処罰をし、このようないじめが起きないように、道徳あるいは、宗教教育を積極的にするべきです。
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