これは、思考実験でもし、五感をこえた感覚器官が人間の肉体に備わっていたらどのような人生観、世界観になるのかと思い、遊び心で考えてみました。
五感までの器官では、物質的な存在しか確認することができません。必然的に経験できる範囲も限定され、方向性を間違えると、唯物論的な人間になり自分を超えた尊い存在に対して目を向けることがなくなり、自分が一番賢いと錯覚していきます。
まったく目隠しをされた状態になるので、失敗すると地獄に落ちる可能性もあり、生まれて来ることじたいが、仏陀の教え「生・老・病・死」の四苦の『生』にあたる苦しみであります。
五感から先は「信」の世界であり、知識だけではどうしても超えられない壁があると思います。
それでは、第六感としての霊的感覚が肉体に備わっていたらどうなるのでしょうか?
唯物論を主張する人間は、いなくなり霊的世界が常識で世界観が今よりも確実に広がることは間違いないと思います。
相手の心が読めるので、相手が悪意をもって接してきても事前にわかるし、裏切られたりすることもなくなると思います。
しかし・・・・
では、どうして仏は肉体を五感までしか与えてくれなかったのか。
ヨハネの福音書には有名なトマスの話が出ています。
イエス様がトマスに対して「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、さいわいである。」と述べられています。
この言葉に、なぜ人間の肉体が五感までしか与えられていないのかヒントがあると思います。
人間は、生まれてくる前は天上界において、本当の意味で自由自在の存在で、自分にあった次元において生活しています。
霊的な存在であれば、神や仏を信じることは容易であり、それほど難しいことではないと思います。
人間は永遠の転生輪廻する存在であり、修行という観点から人間を考えてみると、天上界で自由自在で生活した自分という存在が、地上に生まれ変わって目隠しをされた状態で、いったいどこまで神や仏を信じることができるのか。悟りの障害ばかり多い地上においてどれだけ、本来の霊的自分を取り戻すことができるのか、自分自身のテストであり合格点がでてはじめて、もといた以上の世界に帰ることができると教わっています。その時の喜びはたとえようがないと思います。
イエス様が見ないで信じた者はさいわいであるとは、そのような意味も含まれていると思います。
このように書くと、物事を二元的なとらえ方以外できない人は、魂や霊的世界を否定したと考える傾向があるので補足しますと、霊的なものを否定しているわけではありません。
悟りに付随した、霊的な覚醒であれば問題はないのですが、そうでなければ、危険の方が大きいと思います。地上は天国より地獄界の影響力が大きいので、自惚れの心があれば自分で気がつかないうちに、操り人形にされてしまう可能性があるからです。
また、霊的世界は善悪の価値観が明確にわかれているので、目隠しされた状態で善をおこなうことは、魂修行の観点から10倍の成果があると言われています。
肉体をもちながら霊的に目覚めることは大事なことであるので、反省を通して心を磨くことを怠らないことが必要であると、自分の戒めとして精進したいと思います。
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