2012年03月25日

ガンちゃん;もし、第六感があったら・・・

もし、第六感があったら・・・

これは、思考実験でもし、五感をこえた感覚器官が人間の肉体に備わっていたらどのような人生観、世界観になるのかと思い、遊び心で考えてみました。

五感までの器官では、物質的な存在しか確認することができません。必然的に経験できる範囲も限定され、方向性を間違えると、唯物論的な人間になり自分を超えた尊い存在に対して目を向けることがなくなり、自分が一番賢いと錯覚していきます。

まったく目隠しをされた状態になるので、失敗すると地獄に落ちる可能性もあり、生まれて来ることじたいが、仏陀の教え「生・老・病・死」の四苦の『生』にあたる苦しみであります。

五感から先は「信」の世界であり、知識だけではどうしても超えられない壁があると思います。

それでは、第六感としての霊的感覚が肉体に備わっていたらどうなるのでしょうか?

唯物論を主張する人間は、いなくなり霊的世界が常識で世界観が今よりも確実に広がることは間違いないと思います。

相手の心が読めるので、相手が悪意をもって接してきても事前にわかるし、裏切られたりすることもなくなると思います。

しかし・・・・

では、どうして仏は肉体を五感までしか与えてくれなかったのか。

ヨハネの福音書には有名なトマスの話が出ています。
イエス様がトマスに対して「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、さいわいである。」と述べられています。

この言葉に、なぜ人間の肉体が五感までしか与えられていないのかヒントがあると思います。

人間は、生まれてくる前は天上界において、本当の意味で自由自在の存在で、自分にあった次元において生活しています。
霊的な存在であれば、神や仏を信じることは容易であり、それほど難しいことではないと思います。

人間は永遠の転生輪廻する存在であり、修行という観点から人間を考えてみると、天上界で自由自在で生活した自分という存在が、地上に生まれ変わって目隠しをされた状態で、いったいどこまで神や仏を信じることができるのか。悟りの障害ばかり多い地上においてどれだけ、本来の霊的自分を取り戻すことができるのか、自分自身のテストであり合格点がでてはじめて、もといた以上の世界に帰ることができると教わっています。その時の喜びはたとえようがないと思います。

イエス様が見ないで信じた者はさいわいであるとは、そのような意味も含まれていると思います。

このように書くと、物事を二元的なとらえ方以外できない人は、魂や霊的世界を否定したと考える傾向があるので補足しますと、霊的なものを否定しているわけではありません。

悟りに付随した、霊的な覚醒であれば問題はないのですが、そうでなければ、危険の方が大きいと思います。地上は天国より地獄界の影響力が大きいので、自惚れの心があれば自分で気がつかないうちに、操り人形にされてしまう可能性があるからです。

また、霊的世界は善悪の価値観が明確にわかれているので、目隠しされた状態で善をおこなうことは、魂修行の観点から10倍の成果があると言われています。

肉体をもちながら霊的に目覚めることは大事なことであるので、反省を通して心を磨くことを怠らないことが必要であると、自分の戒めとして精進したいと思います。



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posted by ガンちゃん at 02:10 | Comment(0) | 日記・エッセイ的なモノ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月21日

ガンちゃん;霊界と哲学の議論

霊界と哲学の議論

『視霊者の夢』という本を題材にしてスウェーデンボルグに対してカントがどのように考えていたのかを観察しながら、現代に関しても霊的世界を認識できない、あるいは客観的ではないので学問的対象から除外する、証拠がないという理由で霊界を否定する人達に対して、霊的世界や魂の本質を伝えるきっかけがつかめればと考え、わかる範囲で考察してみます。

カントやスウェーデンボルグ以外にも歴史上、思想的な対決がありました。ソクラテスとソフィストたち、ヘーゲルとショーペンハウアーなど、するどい対決がみられます。

スウェーデンボルグは数学や鉱物学を学びスウェーデン国の鉱山局の技師をつとめ、その後、数十年にわたって貴族院議員として政界で活動しました。その一方、科学者、発明家としても大きな業績を残した方です。

1766年カントは、『視霊者の夢』を刊行し、スウェーデンボルグとの対決する姿勢を明らかにしました。
カントの結論は、人間は霊魂や霊界との交流に関する空想、夢想を退け、むしろ現実の生活にまじめに取り組むべきだという結論に至りました。
『視霊者の夢』の末尾には、「…あの世におけるわれわれの運命は、おそらくわれわれがこの世におけるおのれの立場を、いかにたもっていくかということにかかっているらしく思われることからしても・・・・多くの無駄な学問論争のあと最後に言わせた『われわれはおのれの幸福の心配をしよう。庭に行って働こうではないか』という言葉をもって閉じることにある」と述べています。

たしかに『純粋理性批判』を書いたカントの立場からすれば、霊魂や霊的世界のように、経験をこえたことに関して認めてしまうことじたい、カント哲学の崩壊を意味することになるかもしれません。

カントは、感性による直観によって対象を観察し、人間精神に宿る概念によって対象を照らすことで認識することができる。カントの概念は対象を認識するための枠組み、あるいは思考するための規定であり、まず経験がなければ概念で対象を認識することができない。
また、カントのいう概念によって認識できるものとは、現象として現れた部分のみ、感覚器官により経験が確認できる範囲のものに限定されている。つまり物の本質ではなく、あくまでも五感を通して確認できる本質の一部、現象部分のみである。と『純粋理性批判』では、いわれていたと思います。

つまり、霊的世界に関しては経験をこえたところにあり、概念で照らす以前の話になるので、物事を認識することができないという結論になるため、100%信じるというところまではいけなかったのかなと思われます。
かといって全面否定はしていないようです。文書にこのようなことが書かれている箇所がありました。
「わたしとしては、この世に非物質的存在があると主張し、わたしの魂もこうした存在のクラスに入れておきたいという気持ちになっている」と述べているので、霊的存在や魂を理論からすると矛盾するような気もしますが、全否定はしていないで認めていた部分もあるということだと思います。

しかし反面では、「将来人々は、たしかに霊について、いろいろと考えはするであろうが、もはや多くを知ることはできないだろといっておきたい。」とも述べているので、カントの立場が自分的にはよく理解できなくなっています。

しかし、カントの哲学を理由に、霊的存在を否定するということは、「キリスト教」「仏教」「イスラム教」を否定していることになります。

唯物論的考え方は、現在でも過去の歴史の中でもある考え方ではありますが、真実は一つであり、霊的世界が本来の世界であることは、必ず証明されると確信しています。現代はそのような時代です。

更にカントは言います。
「重要なのは常に道徳性である。これこそわれわれが護持せねばならぬ聖なるもの、侵しがたいものであり、さらにこれこそすべてのわれわれの思弁と探求の基礎であり目的である」と述べています。

この点は難しい議論でありますが、仏教で説かれているように人間の感覚器官は不完全なものであり、五感とその対象、その関係の認識によって人間は自分自身や世界観を構築しています。感覚器官が不完全なものである以上、霊的存在が経験的に見ることができなくとも否定する根拠にはならないと思います。
スウェーデンボルグは「全人類はひとしく霊界と密接に結びついているが、ただ彼らはあまりにも粗雑であるために感じないということだ」とのべたうえで、「人間の記憶を内的記憶と外的記憶にわけ、外的記憶をこの世のもの、内的記憶をあの世のもとする。この内的記憶のなかに、外的記憶から消滅したものがすべて保存されている。死後、かつてその人間の魂のなかに去来したものすべてが、すなわち,おかした罪やなされた美徳のすべての完全な追想が出現する」
と言われていますが、ルドルフ・シュタイナーも人間の地上での記憶は死後、忘れ去られていくが、経験を通して得られた力や、精神性などは魂の記憶として来世に持っていくことができると書かれていたと思います。

最後にカントは言います。「肉体的存在はけっしておのれの自存性をもっているわけでなく、ひたすら霊界によってなりたっているとのスウェーデンボルグの考えに同調している。物質的事物の認識は2種類の意味をもっている。一方は、物質相互の関係における外的意味であり、他方は、原因である霊界の作用として物質的事物が表わされる場合の内的意味である。この内的意味は、人間には知られていない。そこで、スウェーデンボルグはこれを人間に知らせねばならなかった。この点におのれの使命があると彼は思っていた。」

つまり、カントとスウェーデンボルグの役割がちがっていただけであり、平面的に見ると対立していると思えますが、弁証法的に統合していく観点が必要であると思います。
地球上には何十億の人達が、多様な価値観のもと生きていますので、真理にいざなう方法も多様性があり、哲学的に真理を探究するタイプ、科学的に真理探究をする過程で仏に出会う人、宗教的に仏の存在を確信する人、いろんな種類の人がいるので、われわれもできるだけ真理の学びを深めながら、いろんな人達にあわせた話ができるように対機説法能力を磨かなければならないと思います。



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posted by ガンちゃん at 21:48 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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