前章では、復活を中心としてイエス様との関係を考察してみましたが、十字架にかかった後に復活して、天に昇ったイエス様についてベガ星人との関係で考えてみます。
マルコによる福音書の第16章には、「主イエスは彼らに語り終わってから、天にあげられ、神の右にすわられた」と書かれています。
また、ルカによる福音書の第24章にも、「祝福しておられるうちに、彼らを離れて、[天にあげられた]」と書かれています。
更に、使徒行伝の第1章には、「イエスは彼らがみている前で天にあげられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスのあがっていかれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った。[ガラリヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天にあげられたこのイエスは、天にあがって行かれるのを、あなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう]」。
ここでマルコ福音書とルカ福音書、使徒行伝に共通して書かれているのは、イエス様が天にあげられたと、書かれていることである。天にあがって行ったではなく、「天にあげられた」ということである。
あげられたということは、自分以外の第三者の力によるという意味にもとれる。
以前、総裁先生はアラーの神が自分を名のる時、「我は」という場合と「我々」という複数形で名のる場合があり、イスラム教徒の人達は、あまり深い意味としてとらえていなかったようですが、実は何人かの神の存在があったということです。と言われていたと記憶しています。
これから考えると、天にあげられたとは、無理矢理にこじつければ、ベガ星の円盤から発射された牽引ビームによるとも、考えられると思います。
特に、使徒行伝には、「天にあげられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。」と書かれている。
物質は、その性質・機能に合わせた固有の振動数を持っており、その波動を4次元振動にきりかえることができれば、物質は4次元的存在に変化すると、自分は考えています。
円盤は3次元振動から4次元的振動に変化することで、物質的には存在を消した状態にすることができる一方、雲を利用して姿を隠す場合があると思われます。
円盤はよく、雲を利用して姿を隠そうとしているのをテレビか何かで見たことがあると記憶しています。
天にあげられ、雲に迎えられてという記述は、雲に隠れた円盤が牽引ビームによって、復活したイエス様を引きあげたと理解することも可能かと思います。
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学