諸行無常とは「この世に存在するすべてのものは、流動していくものであり、変転していくもの、変化していくものこそが本質である」というとらえ方です。
無常とは、冷たいとか悲しいという意味ではなく、「常ならず」という意味で、恒常的なもの固定的なものは存在しないということだと考えます。この流動的な立場だからこそ、縁起の理法が成立すると思う。原因や条件によって人生や世界は変化していくという考えです。
諸法無我は、この物質世界は仮の存在であり、すべては夢幻の世界であるとする考え方で、この地上は実体的なものは存在しなという「空」の思想につながる考えです。
すべての存在は恒常的なものでなく、その存在自体に滅びの性質が内在されている。滅びはその存在自体にすでに備わっているものであり、滅びていくものと、新しく生まれてくるものは一体であり循環しているものである。
すべてのものは滅びていく存在であると同時に、新しく生まれ変わってくる存在でもあるので、自性なるもの、自らなる性質はない。
ここでヘラクレイトスの思想と比較してみたいのですが、ヘラクレイトスの思想は断片的で現在あまり残っていないようですが、わかる範囲で仏教の思想と比較していきたいと思います。
ヘラクレイトス 前535頃〜475頃 ギリシャの哲学者
「なにものも有ることなく常に成るのみ、万物は流転する、万物は流れて止まらず」哲学小事典より
「万物の根源は火である」というのが彼の思想の核心であり、また「万物は絶え間なく流転する」とも説いた。
プラトンはヘラクレイトスの複雑な思想のなかから、その核心をなすものとして「万物流転」を取り上げた。プラトンによれば、ヘラクレイトスは、この世界に存在するすべてのものは、一瞬たりとも静止していることはなく、絶えず生成と消滅を繰り返していると主張した。「諸君は同じ河に2度足を踏み入れることはできない。なぜなら新しい河水が、絶え間なく諸君に押し寄せてくるからだ。」こうヘラクレイトスはいって、この世界に恒常的なものは何もないと主張したというのだ。
プラトンはヘラクレイトスのこの思想を、自分の思想の中に巧妙にとりこんだ。つまり、感覚し得る世界には永遠なるものは何も存在しないということの証拠として万物流転の思想を利用しながら、他方では感覚を超えた知性的な存在としてのイデアを主張したのである。
たとえば火についても、それはアリストテレスが要約したような、静的な原理には留まらない。火は始原的な要素であり、万物がそこから生じた元のものではあるが、それ自身が不変の実体といったものではなく、絶えず燃えながら変化しているものである。「火は空気の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる」といった具合に、すべてが相互回帰的に循環しながら、流動している。そこには、戦いのイメージがある。「戦いがすべてのものに共通して見られ、正義であることをわれわれは知らねばならぬ。」
この戦いのイメージは、戦いを通じての統一のイメージとも結びついている。「対立物の統一」の思想である。戦いにおいて対立物は調和であるところの一つの運動を生み出すべく結合する。「万物から一が生じ、一から万物が生ずる」という言葉は、この絶え間なき運動の過程を象徴したものである。ヘラクレイトスにとっては世界とは、もろもろのものがせめぎあいつつ、その動的なプロセスのなかから調和したものや一なるものが生成される、ダイナミックな相においてイメージされていたのである。
統合する対立物というヘラクレイトスのこの思想は、やがてヘーゲルによって血肉化され、弁証法的な思考へと発展していくことになるだろう。
仏教やギリシャ哲学、あるいはヘーゲルの観念論哲学は共通する部分が多い。存在の本質は変化であるという点で感覚的なものを実体として観察していないものと思う。
涅槃寂静に関しては、自分の領域を超えていますが、諸行無常と諸法無我の関係で考察すると、この物質世界の中で人間の本質は魂、あるいは霊的な存在であり、常に霊的な視点から自分自身の考え方や行動を観察し人生の誤りを軌道修正する。いづれにしてもそのような境地に到達するのは後、百万回ぐらい転生しないと無理ではないかいと思うので涅槃寂静に関しては以上です。
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