2011年11月26日

[HRPニュースファイル102]宮古海峡の中国海軍通過――政府はなぜ抗議しないのか!

[HRPニュースファイル102]宮古海峡の中国海軍通過――政府はなぜ抗議しないのか!

中国海軍の艦艇合わせて6隻が、22日から23日未明にかけて、沖縄本島と宮古島の間の公海上を通過しました。

中国海軍は空母の運用も見据えて、遠洋に進出する能力の強化を図っており、ここ数年、太平洋上で訓練を重ねています。

今年6月にも、艦艇11隻からなる艦隊が沖縄近海を通過して太平洋に進出し、洋上での燃料補給や実弾射撃などの訓練を行っており、今回もその一環と見られます。

今回の中国艦隊6隻の通過について、防衛省は「公海上のため国際法的に問題はない。海上自衛隊の哨戒機などによる警戒監視を続ける」としています。

しかし、今回の通過は、本当に「公海上のため国際法的に問題はない」のでしょうか?

こうした事態は、本年6月8日にもありました。この際、幸福実現党ついき秀学党首は「【声明】中国海軍の沖縄近海通過を受けて」を発表し、「国海軍の航行に対し、日本政府は『公海上で国際法上問題はない』として抗議しない方針と報じられているが、そもそも同海域はわが国の『排他的経済水域内』であり、『公海』と言い切ることには間違いがある。
弱腰外交は中国の増長を招くのみであり、今回の事態に対して、何ら抗議しようとしない日本政府に対しては猛省を促すものである」と述べています。

日本では、領海の基線から12海里(約22キロメートル)までを「領海」、200海里(約370キロメートル)までを「排他的経済水域(EEZ)」(ただし、領海部分を除く)、200海里を超える海域を「公海」と定めています。

「公海」とは、どこの国の領海、排他的経済水域等にも含まれない海域のことを指しますが、今回、中国海軍の艦隊が通過した宮古海峡は明らかに日本の「排他的経済水域」であり、「公海」ではありません。

中国艦隊の同海峡通過に対して、政府はいつも「『公海上で国際法上問題はない』ので抗議しない」という姿勢を取っていますが、宮古海峡を「排他的経済水域」と認めないことは、明らかな主権放棄であり、マスコミをも含めた情報隠蔽、印象操作の典型です。

国民は「公海上の通過だから抗議のしようがないか」という印象を受けますし、中国は宮古海峡の通行について、日本政府のお墨付きを得て、「公海上の通過の何が悪い」と開き直っています。

もちろん、排他的経済水域であっても、国際法上、中国の艦隊の通過通航権は認められていますが、沿岸国として、事前通報なき軍艦の通行は、安全を脅かす行動であり、厳重に抗議すべきです。

中国の行動は観測気球的な要素もあり、相手が抗議しなければ、次はもっと踏み込んでくることは「法則」です。

一回一回の抗議を怠ることは、中国をそれだけつけあがらせ、大きなツケとなって戻って来ます。

ましてや、最近、頻発している中国の海洋調査船が事前通報と異なる海域で調査を実施している事件については、国連海洋法条約第40条「外国船舶(海洋の科学的調査又は水路測量を行う船舶を含む。)は、通過通航中、海峡沿岸国の事前の許可なしにいかなる調査活動又は測量活動も行うことができない」に明確に違反しています。

政府は、日本の国益、並びに安全保障を守るべく、中国に対して、毅然として厳重に抗議すべきであります。(文責・矢内筆勝)
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posted by ガンちゃん at 21:20 | Comment(0) | 幸福実現党 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ガンちゃん;琴のたとえと苦楽中道

琴のたとえと苦楽の中道

釈尊在世の頃、富豪の息子シュローナという者がいた。かなり贅沢に甘やかされて育った人物だが、ある時、釈尊の説法を聞くことにより、今までの自分の人生を悔いて、反省し人生を立て直そうとした。そうすると何の猶予もなく人一倍修行に励んだそうです。インドの仏教では毎日、座禅を組むことが日課でその後に素足のまま歩きまわる(経品)とう修行に入るそうである。このシュローナは今までそのような修行などしたことがなかったが、今までの償いをするために人一倍努力されたそうです。しかしもともと過保護で育てられた為、その足はたちまち傷つき経行場は血だらけになったとのこと。それを聞いた釈尊がシュローナを呼び出して次のように問われた。
「汝、琴を弾いたことがあるか」
「家にいたころはよく弾いていました。」
「琴の糸がゆるみすぎたらいい音が出るであろうか?」
「それでは琴がなりません」
「糸を強くしめれば琴はなるであろうか」
「いいえ、それでもなりません」
「どうすれば、よい音がでるであろうか?」
「ゆるからず、強からず、適当に加減してはじめて琴がなります。」
「それと同じように修行もまたゆるすぎず、強すぎず、その度合いが必要である。」
『律蔵大品』

仏教的な正しさとは中道であるが、これを個人に引き直して実際の生活に生かすのはかなり難しいと思う。人間はどちらか極端な方向にいきやすい。多くの人は霊的世界に関心が向かず、快楽中心の生活に欲望を満たそうとする。一方、肉体を非常に苦しめたりすることにより悟りが得られるのではないかと考える人たちもいるが、その両方が誤りであり、両極端を否定した中に真実の人間としての生き方があるが、それを自分の人生にどのような形で生かせば良いかが未だに実践できないでいる。
仏教は二律背反する二つの方向性を統一していきながら弁証法的に自分の人格を向上させ、認識力を高めながら、その悟りの力で周りの人を感化して行きなさいという教えなので、単純にたして2で割ったのが中道であり、ほどほどに生きれば良いというわけではない。
では中道的な人生修行とはどのようなものであるかといえば八正道ということになるが、正心法語で説かれている八正道の正見、縁起の理法で自分の過去の思いや行動を反省し、未来に対してはどのような種を蒔いて育てていくかとう点ですら、かなりの認識力を必要とする内容なので、仏教の奥の深さを感じながら『正心法語』をとなえています。

渡辺照宏氏の『仏教を知るために』という書物の中に「仏は一言をもって法を演説する。衆生、類にしたがって各、解することを得。」維摩経
の解説で、同じブッタの説法を聞いても聞く人によって理解するところが違う。美しい果実を見ることによって“自然はすばらしい”と感じる人もいるし、“盗んでやれ”という悪心をおこすものもあるかもしれない。“貧しい人に恵んでやろう”と思う人もいるであろう。
説法を聞いても、真理の書籍を読んでも、受け側によって天と地ほどの差がある。
ブッタの説法は素晴らしいのは間違いないが、良い教えをきいてそれを活用するのは、私たちの責任である。と述べている。
これは、現代でも言えることで、同じように説法を聞いていてもどのように理解しているかは各人の認識によって違っているであろうし、同じ内容を聞いても知覚内容が違ってくれば行動の違いとして現れるであろうから、普段からの法友とのコミュニケーションが大事であると思う。

毎日の生活の中で自分を追い込んでも行けないし、適当にその日その日を暮らしてもいけない。また、学んだ教えをどのように伝えていくかが自分を含めて各人の修行課題だと思うので毎日考えながら、行動にあらわしていきたいと考えています。





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posted by ガンちゃん at 02:58 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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