自分の頭を整理する意味で考えをまとめてみました。
弁証法と中道
この地上、三次元物質の世界は有限性のために、自己の中で常に対立矛盾が発生し、それを止揚統合されながら、個人や社会は発展していく。止揚とは、弁証法的発展においては、低い段階の否定を通して高い段階に進んでいく。この高い段階の中に低い段階が包含されている。例えば有と無は対立関係にあり矛盾するが、両方を否定した生成のなかに有と無を統一していく運動法則がある。
例えば、平面的には有か無かどちらかを選択することで片方を否定していくことになるが、立体的に見れば両方を包含することができる
図の座標を参照すると、X軸だけで考えると有か無かどちらか以外に選択する方法はなくなるが、仮に、Xをこの世の存在を肯定する実存的立場で有(世俗諦)とすれば、Y軸に、この世は常に変転変化するゆえに本質的な世界ではないとする無(第一義諦)とすればX軸とY軸が交差する(ab)は有でもあり無でもあるけでも、有でもなく無でもない中道的な観点ができる。
0から(ab)に線を引くと左の図になり、三次元的(立体的)に見ると対立矛盾する存在や関係は統合されていくのであり、それは一段発展した姿であると思う。しかし個人や世界においては常に変転変化しているので、常に対立、矛盾が発生するがそれを統合する過程で個人や世界が段階的に発展していくものと思う。
正・反・合の関係で人類は発展していく。この三次元の物質世界の意味は、高次元の視点からみれば低い状態にあるかもしれないがゆえに、常に善と悪、陰と陽、山と川というような二律背反する世界であり、これを統合する過程に人間の認識力の向上や世界の発展繁栄があり、その先には光一元の世界観があると思う。単純に一元的な考え方でなく、正・反・合の繰り返しによって矛盾する関係が統一止揚されるということである。弁証法的な考え方はだいたい以上で中道との関係や共通性を考えてみたいと思います。
実践的観点の中道は、苦楽の中道と言われています。極端に肉体を苦しめる苦行も、刹那的に生きる生き方や自分の肉体を楽しませる快楽中心的な生き方も、どちらも魂の向上にとって正しいあり方ではなく、適度な集中力や緊張感を持ちながらも、くつろいだ状態を持つように努力することが大事かと考える。自分に当てはめれば、苦行の方にはいかないと思うので、あまり楽な道を選ばないように、自分に対しての適度な厳しさが必要かなと考えています。
中道的観点で物事を観察し判断するということは、自分の見方考え方をいったん脇に置いて白紙の状態で物事を洞察することだと教わっています。自分の見方、考え方は生活環境、両親の考え方や教育、仕事などに影響をうけており、真理の観点からみて自分の価値基準が正しいかどうか定かでない。自分の考え方をいったん否定して、白紙の状態で観察、洞察することであると考えます。
また、「断常の中道」という考え方、断とは人間は死んだら何もかもなくなっていくという唯物論的な考え方。また、常とは今の自分の存在形態や思考形式などが霊的世界においても、地上の延長線上にあり、そのあり方が永遠に続いていくという考え方。どちらも両極端であり、その思いや考え方、認識力や他の人に対しての影響力でいく世界や存在形式が変わってくる、変化しながら存在する。これが正しい認識だと教わっていますが、日常生活の中でそれをどのように反映させるかが各人の課題であると思う。
天台大師智が説かれた三諦円融、空諦・仮諦が融合していく過程にあらわれる中諦という真実の世界観が弁証法的な運動法則、対立矛盾する価値観を一つ上の段階で統合していく中に個人や人類の発展があるとする考え方と、あまりにも共通するので世界の歴史は偶然の産物ではなく、神の世界計画を感じざるを得ないと思います。
縁起によって起こるもの、因果関係で原因や条件に依存して存在するもの、変転変化するものは実体ではないという空諦、また、この地上が存在するということはそこに神や仏の偉大なる叡智が隠されており、単に否定すれば良いというわけではない。地上生活の中で魂を磨くことでより修行が進み神仏に近づくことができるという仮諦。また、空諦や仮諦どちらかにかたよった時に、また極端なものの見方、考え方になってしまうので常に、自分の在り方を霊的観点からと、地上は修業の場であるという観点と両方から自分の在り方を見直すという中諦。
しかし、これを個人の生活や考え方に引き直して考えるということは応用問題なので、実際は理論通りにはいかないというのが現実問題で、理念と現実のギャップを埋めることもまた、修行かなと考える次第です。
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posted by ガンちゃん at 22:51
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哲学的認識論
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