2011年09月22日

ガンちゃん;宗教を尊敬する国家をめざして

宗教を尊敬する国民及び国家をめざそう

日本には民主主義が繁栄しているように見えますが、日本の民主主義の基礎、土台にあるものは虚像というか、偽物である。民主主義の基礎にあるべきものは、「神の心」「仏の心」であるはずです。
民主主義といえば、やはりギリシャを思いうかべますが、プラトン・ソクラテスやそれ以外のギリシャの哲学者の本を読むと、当時のギリシャ人は間違いなく神の存在を信じていたと確信します。
神の御心はどこにあるのか、人間として尊い生き方とはどのようなものなのか、当時のギリシャ人は神の御心とはどこにあるのかという精神性を持っていたと思います。
神や仏という存在を否定した上にある民主主義はどのようなものなのでしょうか?唯物的な人たち、神や仏などあるものかと思っているような人たちがつくる民主主義とは衆愚制であると思います。
一部の独裁者によって惑わされる全体主義が始まるのではないかと考えます。日本の民主主義は物質的繁栄のみであって、その中に心がないと思う。精神性や理念の部分が明らかに欠落しており、形だけの民主主義、形だけの人権になっています。
人権が尊い根拠は、人間は仏、神の子であり、肉体ではなくその中に宿りたる魂、霊的存在それに、その魂の核の部分が神仏と同じ光を宿しているという点で人間は尊いのであり、肉体のみを尊いと考えると、殺された人より、殺した人の方を優遇しようとする。殺された人はすでに肉体が死滅したので終りなのだから、罪を犯した、生きている方の犯罪者をどうすればよいかだけを考える。価値観が全くおかしなことになり、被害者より加害者を優遇するということが法的に合法化されるのであるから、唯物論とは恐ろしいものである。

以前総裁先生が引用していましたが、マックスウィーバーという社会学者は『古代ユダヤ教』という本で、「民主主義の時代は宗教が繁栄する」と書いてあり1人ひとりが神の心、仏の心を求めて活動するときに、社会は繁栄すると言われていました。それゆえに民主主義は宗教と一致するのです。
日本の土台を築いた聖徳太子は、日本に仏教を取り入れ神道と融和しながらこの国を運営してきました。外側は日本神道、中身の部分、教学は仏教という形で助け合ってやってきたのに、明治以降は国家神道となり、他の宗教は弾圧されました。天皇を「現人神」にし、仏教に対しては『廃仏毀釈』と言って仏を廃し、お寺や仏像を打ち壊し始めました。仏を軽んじたことが、やはり第二次世界大戦の敗戦のもとになったと言われています。
また、日本国憲法は「信教の自由」を認めながらも、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動をしてはならない」と規定し政教分離がかなり悪い方向に解釈されたと思われます。宗教が悪者のように扱われ、受け取られる傾向が強まってしまいました。
政教分離の趣旨は、「人々を統制する道具として宗教を用いてはならない」ということです。「統制する道具」として宗教を使ってはいけないということが、政教分離の意味であり、宗教は悪いものだから公的な場から締め出すとう解釈は間違いであると指摘されています。

単純に宗教だから悪と考える人たちは思考が停止し、物事の価値判断、善悪を分けることができない人たちであると思うので、真理を知った人たちはやはり言葉を武器として言うべきことはいい、宗教が尊敬される国家創りをめざして汗を流すことが大事であると思います。



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posted by ガンちゃん at 03:43 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月21日

ガンちゃん;他力の宗教と自力の宗教

他力の宗教と自力の宗教

日本において他力信仰は、かなりの人々の間に根付いている。他力信仰が生き過ぎて御利益信仰にまで広がり、神仏を尊ぶというよりは、自分の利益が先行している気がする。他力信仰が悪いと言っているのではない。「他力の宗教のマーケットは自力の宗教の10倍ある」といわれているそうなので、宗教として他力信仰を切り捨てるわけにはいかない。
なぜ、他力信仰は比較的簡単に広がっていくのだろうか?やはり人間は地上に生まれて来ることで、肉体に基づく感覚器官をよりどころとして、対象を観察し、思考しながら価値判断をする存在なので、どうしても感覚器官を超えた霊的世界に関しては信じるか信じないかという個人的な事情によることになる。
そして人生は四苦八苦と言われるように霊的世界から見たらこの物質世界はかなり厳しい修行の場と教わっている。それゆえに、どうしても自力ではいかんともしがたい状況が現れ、どのように判断して問題を解決すればよいのかわからず迷いの世界に入ってしまう。これは自分も含めて真理を学んだとしても知識で止まっているか、学んだ内容が実践を通して自分のものとしているかでも結果が違ってくる。
しかし、真理を学んだ人たちは人生の試練や苦しみ、悩みを単純に嘆くのでなく魂の肥しとして砥石として理解しながら魂を鍛えているという観点で受け止めるので、人生観が唯物論的生き方をする人たちと明らかに人生の意味が違ってくる。

「人間は、たとえ、亡くなる時点において、他の人から尊敬される立場に立っていなかったとしても、その思いと行いが正しいものであれば、あの世に帰ったからきちんとそれなりの判定がされる」と教わっています。

人間が永遠の転生輪廻の中を生きていくということは、やはり、自助努力があっての他力であり、始めから何の努力もしないで、他力にお願いするということはどうなのかなと思ってしまいます。
また、会員信者であっても今後も困難苦難はあるかもしれないが、それを「信仰の是非あるいは善悪」の結果として受け取らないで下さい。とも言われています。

ドイツの観念論哲学のフィヒテは、「人間が進歩発展するプロセスのなかには、霊的な力がはっきりと顕現していて、哲学者はそのような人間一人ひとりの内なる進歩発展の原動力の奥深くまで認識の眼を向け、魂の根源を認識の光で照らしださなければならない、それが哲学者の最も大事な課題なのだ。」という意味のことを言われていたと思います。

意外に霊的世界を知るには、自分自身の内側をしっかりと見つめ直すことである程度の霊的認識をつかむことができるかもしれない。例えば、太平洋の海の水と一滴の水は量的にいえば比較にならないが、両方の水はH2Oという点で共通している。太平洋の海水(宇宙)を知ろうとすれば一滴の水(個人)を分析することで知る手かがりはつかめるのではないかと思う。

他力を推し進めると広がりはあるが内容や質の点で落ちてくると思われるし、自力が行き過ぎると、ついてくるものは、ついてきなさいという世界になってしまうので、宗教にとってはどちらも必要であるが、必要であると同時に自力と他力は二律背反しているので統合するのは更に難しい。方向が逆なので現実レベルで両方やるのはかなり大変なことであると思う。

自分が経験してきた人たちは法華経関係の女性の人たちが多いので、話しの内容を聞くと因果関係、縁起の理法を無視した説得の仕方をしてくるが、霊的世界に関しては漠然とした世界観を持っているようではあるが、とにかく結果的に幸福になれればよく、魂を磨くという観点が欠落しているかなと感じるが、本人たちは法華経で救われたと思っているので、なかなか話をしても平行線で終わることが多い。

結論は宗教においては、自力も他力も両方大事であるが、順番としては自力、努力精進が最初に大事なことで、やるべきことをやり、その上での他力であると思う。
自我力までいってはいけないと思うが、生まれてくる目的を考えると自力→他力の順番だと思う。

捕捉でただ現実には自分の力ではいかんともしがたい現実があるので、その時は他力にゆだねることは大事なことであると思う。



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posted by ガンちゃん at 02:17 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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