十八界の思想と空の論理
十八界とは人間の感覚器官とその対象の関係に対しての認識である。観念論哲学と通じるものがあると思うが、第一に眼です。眼から入ってくる情報は対象を認識するにあたって、かなりの割合を占めると思う。しかし、その情報が正確なものというわけではない。眼の機能に依存した見方になると考えられる。人間や動物、鳥類、爬虫類など同じ対象を観察したとしても見え方はそれぞれ違った見方をしていると思う。その結果、やはり知覚内容が変わってくると考えられる。仮に視覚的に同じような見え方をしたとしても視覚による知覚内容が違うということは同じものを見ているとは言えないと考える
次に、耳である。人間の耳はある一定の周波数の幅で音として確認できるが他の動物などは人間が聞き取ることができない音を聞いていると考えられるので、音もやはり耳の機能に依存した範囲以外聞き取れないのである。次に鼻でこれも同じ人間であっても男性と女性では臭いの感じ方が違うものと思う。ある種の臭いに対して男性は何とも感じないが女性は我慢できないということがあるので、鼻に関しても感じ方はいろいろである。次に舌である。これも舌事態の機能はそんなに変わらないと思うが、日常の経験の中で普通では食べられないくらいの辛さの食べ物を普通に食べる人もいるし、甘いものが好きな人、嫌いな人等、人それぞれである。
次に身である。神経を通して皮膚はいろいろな感覚を持っています。これも皮膚の感覚機能自体は人間であればそれほど大差はないと思われるが、暑がり屋、寒がり屋がいるのでもわかるように、皮膚も個人によって受け止め方が違うと思う。
最後に意である。この意に関しては宗教の中でかたっているような奥深いものでなく、五感から集められた情報を判断している頭脳に当たる働きと考えていいと思います。
以上が「眼・耳・鼻・舌・身・意」に関しての説明です。
次に六境(六つの対象)とは、先ほどの感覚器官に対応するもの、その感覚の対象となるものです。
「色」です。眼を通して色彩などを感じ取ります。次に「声」です。音や音楽を聞いてそれに対して快・不快を感じることがあります。「香」は香りを感じ取ります。つぎに「味」です。舌で感じるものは味わいです。身体で感じるものは「触」です。いろんな感触を感じ取ります。次に「意」です。意の部分でと感じるものは、法です。法は、概念や観念といった抽象的な言葉で語られるものです。
このように「眼・耳・鼻・舌・身・意」という感覚器官の対象を「色・声・香・味・触・法」と言い、これを認識の対象領域という意味で六境という。
また、六識(六つの認識)とは、肉体に基づく感覚器官とその対象の間の関係をどのように認識するかということです。「眼識」は対象を眼で確認して、それが何であるかを判断します。「耳識」は耳に入ってくる音や音楽を聞きながら、クラシック音楽を好きとか雑音がうるさいとか認識します。これ以外に「鼻識」「舌識」「身識」また心のほうで「意識」が出てきます。
「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六つの感覚器官(六根)が「色・声・香・味・触・法」という六つの対象(六境)を感じ取り「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」という六つの認識(六識)を生じます。
この18個をあわせて十八界と言います。
感覚器官とその対象の間での関係をどう判断するかという認識が生じます。人間の認識と言っても突き詰めて考えると十八界によって世界認識をしていると仏教では教えています。
しかし、対象との関係における認識が本当に正しいのかという観点から空の思想が出てきます。あくまでも感覚器官で対象を確認できる範囲は物質的な部分だけであり、本来我々は霊的存在ゆえに、感覚器官だけでとらえた自己認識あるいは世界認識を真実の認識と考えてよいのであろうかという問題が出てきます。
ここで「説一切有部」という部派が無我や空の思想を唯物論的な解釈したため、それを打ち砕くために、龍樹(ナガールジュナ)が空の思想を説いた。大乗仏教の中興の祖であり、様々な宗派の宗祖になったという意味で八宗の祖とも言われています。龍樹は感覚的なものがはたして実体があるものなのかを問うのですが、実体を規定して、それはまず自立的だという。実体が他に依存しているとは言えないからである。実体は常住なものだからそれが他に依存して生じたり滅したりすることはない。だから自立的であるという。自立的であるということは仏教の縁起の理法と対立関係にある。縁起とはすべてのものは数多くの原因や条件によって生じるという考え方なので、自立的とは他の物に依存しないで存在するということである。
次に実体とは、恒常不変だといいます。実体が変転変化したらおかしいということです。次に実体とは、単一であるといいます。本質的なものが複合的にできているのはおかしので実体とは単一であると定義しています。
整理すると自立的(縁起によって成り立たつのでなく他に依存しない)、恒常不変(永続すると同時に絶対に変化しない)であり、複合的ではなく単一である。この三つの条件を満たすことで実体ということを規定するのである。ところが龍樹によるとそんな世界は言葉の中だけでしかなく、世の中は無常であると認識していたと思われます。
また龍樹の空の思想では、二つの世界観にまとめています。
この世、物質世界を肯定する、実存主義的な立場を「有」、それを否定しこの世の存在はすべて夢や幻なのだという立場を「無」とするならば、この有と無の両方を否定した中道こそ真理としました。『空と阿羅漢』より。
この世の物質世界、有の立場を「世俗諦」と言い、この世の存在を否定する無の立場を「第一義諦」といい、この世的なる霊的生活という観点から世俗諦の中にも、第一義諦の中にも真実はなく両方を否定した中道こそ空の世界と理解したと教わっています。
世俗諦の立場は実存主義の哲学に近い考え方で、この物質世界をいかに効率よく生きていくか、どうすれば自分が幸せになるかと言った自分中心の考え方に近くなると思うが、第一義諦の視点から見れば、霊的世界が本質で物質世界は仮の世ということになる。
通常霊的世界は我々には確認できない。十八界で説明したように肉体に基づく感覚器官の機能に依存したとらえ方しかできないので、感覚器官を超えた存在に関しては、カント的にいえば経験を通して確認できないので学問の対象外になるということになる。
空についての補足を梶山氏の「空の思想」から引用すると例えば、黒板を例にとってみると、これは、木材と大工さんとペンキ屋さんなどに依存して生じ、その他のものとの関係においてここに存在する。だからこれは縁起したものであり、自立的に存在しているわけではない。またこの黒板と言われているものは叩き割れば薪になり、燃やせば灰になる。風が吹けばとこかに飛んで消失してしまう。決して恒常でもなければ不変でもない。では単一かというと、すべてのものは複合的で、黒板という一つの全体性があるわけでなく、黒板はたくさんの部分が寄り集まってできている複合的なものであり、それは決して単一のものとは言えない。部分の最小単位は原子ですが、黒板は無数の原子の集合により成る。と考えると黒板は複合的である。要するに大きさや広がりをもったものすべて複合体である。
要するに真実の世界観、仏教的世界観はすべて、自立的でなく縁起したものであり、恒常不変なものでなしに、無常で変転変化するもの、単一でなく複合的なものである。
これはこの世がすべてと考える唯物論的な人たちに対して、仏教的にこの世は実体のある世界でなく無常の世界であり、霊的世界こそ真実の実在世界であり、霊的世界があるからこそ、この世的な物質世界の意味がわかってくるということだと思う。
霊的世界を直観的に理解できる人に対して説明は不要かもしれないが、大勢の人は眼に見えない世界に関しては懐疑的である。
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