人間は霊的存在であり、神仏と同じ性質、仏性を宿しており、ダイヤモンドの輝きを本来は心の奥深くに宿しています。
人間は精進によって、そのダイヤモンドをどの程度、輝かすことができるか、地上に降りて、困難・苦難や試練を経て、その中でどれだけ、愛の気持ちを持ち続けることができるか、相手に対して心から優しくできるか、自分の苦しみや困難を通して、どれだけ相手の気持ちを理解することができるようになるのか、地上に何度も生まれ変わって、いろんな経験をする理由の一つは、自分の苦い経験を通して相手の気持ちを理解することができるというところであると思う。
ところが、自分に霊的現象がおきて自分は普通の人とは違い、特別な人間なんだと思い始めると、人間はうぬぼれたり、慢心したりしてくると思います。
もし、霊的現象を通して、その人が相手に対して優しい気持ちが起きてくるなら、素晴らしいことだと思う。この三次元という不自由な世界で、すべての人がそれぞれの魂修行をしながら苦しんでいる姿を見て、「みんな、がんばっているんだな、それぞれの立場で努力されているのだな」と思えると、かわいそうになる(見下すわけでなく)というか、なんとか助けてあげたい気持ちがこみ上げてきたりするのであれば、問題ないと思いますが、慢心すると、言葉が必ず上から目線的な口調になってくると思う。
「ちなみに、先日夜、近くのそば屋に食べに行ったとき、作業着を着たおじさんが、うまそうにうどんを食べている姿を見て、なんとなくかわいそうに見えた。(上から目線でみたということでなく)」。
八正道でも、正語、正業、正命をみれば、正思の部分が点検できると教わっていると思います。
つまり、心が変わって初めて、行動はどうですか、生活は整っていますかという話になってくるのであり、霊的な現象を実績などで、正しいか、間違っているかを判断するのは危険であるし、目に見える部分だけを持って評価することも間違いであると自分は思います。
しかも、霊の声が聞こえたというだけで、その霊が意図していることを見抜けるわけがなく、総裁先生ですら、何年も検証されたと学んでいます。
相手に対して優しい気持ちがあって、初めて次に実績がどうかということであり、この順番は大事であると思う。
結論は、霊的現象に振りまわされた生き方は危険であり、やはり教学をしっかりと学びながら、謙虚に自分の実績を確認し、相手に対して優しい言葉を投げかけることができる自分でありたいと思う。
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