2023年10月15日

信仰と自由

主は、エルカンターレを信じて信じて信じ切ることが信仰であると言われました。

では、信仰が本物か偽物なのかの判断基準はどこにあるのでしょうか。

それは実践の中に答えがあるといえます。

主を信じたのであれば、それを行動にしなければ信仰が本物かどうかわからない部分があるといえます。



イエス様は

「その木がどんな木か知りたければ、その実を見ればよい」

と言われていたと思います。

木が原因で実が結果ということです。

原因・結果の法則、縁起の理法をわかりやすいたとえ話で、語られていると思います。



人間には自由意志が与えらえていますが、自分の自由意志で行動した結果を確認すれば、行動の前提である心の状態が正しいか間違っていたがわかるのです。



ヘーゲルは、

『特に個人の自由にかかわる善悪には責任がある。本当に責任がないのは動物だけです』

と述べています。



責任を伴わない、あるいは責任を取らない自由は、動物と同じレベルであるということです。





「汝自身を知れ」とソクラテスは言われました。

この意味するところは、己自身の精神性、霊性の本質に目覚めよ、魂の真実に目覚めなさいという意味だと私は考えます。



信じたならば、行動して形あるものにしなければならないのです。



ヘレンケラー女史はスウェーデンボルグを崇拝していたようです。

限りない苦労と困難を乗り越えたヘレンケラー女史がたどり着いた信仰について学ぶことは
私たちにとっても大変重要であると思います。



以下ヘレンケラー女史のお言葉です。



私たちは主の教えを信じきるときに、この世で生きられるのです。そして、

主の「汝の隣人を愛せよ」という言葉に従えば、この上ない幸福が世に訪れるのです。



私は信じます。

人と人の間に起こる問題はすべて宗教的な問題です。そして人間社会に起こる過ちはすべて道徳的過ちです。



私は信じます。

私たちは神の御心を成し遂げることにより、この世に生きられるのです。

天国において神の御心が成し遂げられるように、地上においてもそれが成し遂げられる時、誰もかれもが人間を自分たちの同胞として愛するようになり、自分たちにしてほしいと思うことを、人に対しても行うようになります。

お互いの幸福はすべての人の幸福と密接につながっているのです。



私は信じます。

人生は私たちが愛を通して成長するためにあるのです。
そして、太陽が花の美しい色彩と香りのなかに存在するように、神が私の中に存在するのです。神は私の暗黒を照らす光であり、私の沈黙に呼びかける声なのです。



私は魂の不滅を信じます。

それは私の内部に不滅への憧れがあるからです。私たちが死んだ後に訪れる国は、私たち自身の動機、考え、行いから作り出さたものに違いありません。



私は信じます。

あの世では、私がこの世で持っていない感覚が得られるのです。そしてあの世で私の住む家には、私の愛する花々や人々が織りなす、美しい色彩、音楽、言葉が満ちています。



自らの信仰を美しいものにしたいものです。



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posted by ガンちゃん at 01:15 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年10月10日

学問とは仏法真理を正しく理解するための基礎力だと思う

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」

は福沢諭吉の『学問のすすめ』の一節ですが、この内容が意味するところは人はすべてにおいて平等であると解釈できますが

この平等とは話の前提に過ぎず、

その後の文は


「実際に世の中を見渡してみると、優れた人あるいは、劣った人もいて両者には雲泥の差があるように見えるのはどうしてなのか?それは学んだか、学んでいないかの差なのだ」
と書かれていたと思います。


最初の文は機会の平等、チャンスの平等と理解できますし、後半のほうは自助努力をして学問を学んだか、さぼったかによって結果が違ってきますよ。

という意味で解釈できそうです。


平等を浅い理解で解釈すると、人はすべて平等なのだから富に関しても、金持から税金をたくさん取って貧乏な方にまわすべきだという考え方もありえてしまいます。

仏法を学んでいれば、努力してお金持ちになっても税金で持っていかれれば、やる気がなくなるか、国外に逃げるしかなく、お金持ちがいなくなることで消費が低迷して、結局すべての人が貧乏になるということが見えてきます。


また、努力した人としない人を平等に扱う社会は、努力しないで他人の力だけで生き延びようとする、他人にぶら下がって生きていこうとする寄生虫型堕落人間を造り出してしまいます。



宗教の世界でも「悟りの挑戦」下巻の『仏性と成仏』に書かれていたと思いますが、最澄と徳一の三一権実論争のように仏性があるから仏様になれるのだという行き過ぎた平等の考え方は、人間を堕落させてしまうことでしょう。



平等の解釈や理解の仕方で、天国的考え方か、地獄的堕落論か大きく分かれてしまいます。

仏法を学ぶことで、霊的世界観であるところの天国と地獄という考え方が加わってきますから、宗教を信じていない人たちより、正しい洞察がされていると思います。


平等という言葉の響きがいい為、機会の平等やチャンスの平等とは解釈しないで結果の平等と理解する人が意外に多いと思います。



門戸が誰にでも開かれているからこそ努力することが成功につながると解釈しないで、平等だから努力しなくても良いと考えたら、たちまち地獄への道になってしまうでしょう。

仏法真理を正しく理解していれば、平等とは別の視点である公平という観点から努力に対しての評価がなされるべきであるということがわかってきます。


唯物的考え方やダーウィンの進化論的な考え方からは、死んだら終りなのだから、なるべく楽をしながら生きていきたいという考え方が人の心に芽生えてしまいます。

人間の本質が理解できていれば、あるいは信仰心がしっかりと根付いていれば、努力したことは結果がどうであれ自分の霊的な進化に役立つんだという考え方が出てくると思うので、安易な生き方ができなくなると思えるのです。



ヘレン・ケラーは、霊的な自分自身についてこう述べています。

「私にとって大きな慰めは、目に見えるものははかないもので、目に見えないものは永遠であるということです」

宗教的真理を学ぶことで、感覚を越えて目に見えない世界に対して理解が及ぶのです。

人間は永遠の時間の中を転生する霊的存在だと知った時、人生観は180度変わっていくでしょう。



「時間とは、僕達が輝きを増してゆくための愛の大河だったんだ」
黄金の法 より



結局、学問とは仏法真理を学ぶための基礎力であると思います。



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posted by ガンちゃん at 00:59 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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