では、信仰が本物か偽物なのかの判断基準はどこにあるのでしょうか。
それは実践の中に答えがあるといえます。
主を信じたのであれば、それを行動にしなければ信仰が本物かどうかわからない部分があるといえます。
イエス様は
「その木がどんな木か知りたければ、その実を見ればよい」
と言われていたと思います。
木が原因で実が結果ということです。
原因・結果の法則、縁起の理法をわかりやすいたとえ話で、語られていると思います。
人間には自由意志が与えらえていますが、自分の自由意志で行動した結果を確認すれば、行動の前提である心の状態が正しいか間違っていたがわかるのです。
ヘーゲルは、
『特に個人の自由にかかわる善悪には責任がある。本当に責任がないのは動物だけです』
と述べています。
責任を伴わない、あるいは責任を取らない自由は、動物と同じレベルであるということです。
「汝自身を知れ」とソクラテスは言われました。
この意味するところは、己自身の精神性、霊性の本質に目覚めよ、魂の真実に目覚めなさいという意味だと私は考えます。
信じたならば、行動して形あるものにしなければならないのです。
ヘレンケラー女史はスウェーデンボルグを崇拝していたようです。
限りない苦労と困難を乗り越えたヘレンケラー女史がたどり着いた信仰について学ぶことは
私たちにとっても大変重要であると思います。
以下ヘレンケラー女史のお言葉です。
私たちは主の教えを信じきるときに、この世で生きられるのです。そして、
主の「汝の隣人を愛せよ」という言葉に従えば、この上ない幸福が世に訪れるのです。
私は信じます。
人と人の間に起こる問題はすべて宗教的な問題です。そして人間社会に起こる過ちはすべて道徳的過ちです。
私は信じます。
私たちは神の御心を成し遂げることにより、この世に生きられるのです。
天国において神の御心が成し遂げられるように、地上においてもそれが成し遂げられる時、誰もかれもが人間を自分たちの同胞として愛するようになり、自分たちにしてほしいと思うことを、人に対しても行うようになります。
お互いの幸福はすべての人の幸福と密接につながっているのです。
私は信じます。
人生は私たちが愛を通して成長するためにあるのです。
そして、太陽が花の美しい色彩と香りのなかに存在するように、神が私の中に存在するのです。神は私の暗黒を照らす光であり、私の沈黙に呼びかける声なのです。
私は魂の不滅を信じます。
それは私の内部に不滅への憧れがあるからです。私たちが死んだ後に訪れる国は、私たち自身の動機、考え、行いから作り出さたものに違いありません。
私は信じます。
あの世では、私がこの世で持っていない感覚が得られるのです。そしてあの世で私の住む家には、私の愛する花々や人々が織りなす、美しい色彩、音楽、言葉が満ちています。
自らの信仰を美しいものにしたいものです。
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