2017年09月18日

法華経を十八界の視点から検証する

法華経を十八界の視点から検証する

十八界を要約します。

六根(六つの感覚器官)
眼・耳・鼻・舌・身・意
眼の機能・耳の機能というように感覚器官の性質、働きです。

六境(六つの対象)
色・声・香・味・触・法
これは感覚器官に対応する対象をあらわしています。

六識(六つの認識)
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
感覚器官とその対象の間の認識です。

眼で見てその対象がなんであるか判断したり、耳で聞いた音等を判断したりします。
すべて合わせて18個あるので十八界と言います。
人間は複雑な思考をしますが、突き詰めて考えてみますと感覚器官から入った情報をどのように処理するかによって世界を認識しています。

人間は対象を、概念あるいは価値観と結びつけて事物を認識し判断します。
視覚的には同じように対象を見ていると思いますが、視覚を通して得た知覚内容が違うので、同じものを見ている、あるいは同じような認識をしているとはいえません。

近現代では、主観を排してできるだけ物事を客観的に見るか、自分の感情を入れないでどれだけ対象や事物を共通認識として理解するかが重要であるとされています。

しかし、先ほど述べましたように我々は肉体に基づく感覚器官の機能に依存した世界を見ているはずです。
(大哲学者であるヘーゲルのように、透徹した思考で事物の中に感覚を超えた理念をみる人がいますが通常は無理)。

例えば、舌の感覚が今とは違う機能であれば砂糖を甘いと感じないかもしれませんね。
私達は、砂糖の本質を甘いと思っているかも知れませんが、実は舌の機能と砂糖の関係を甘いと認識しているだけであって、砂糖という物質が本来、甘いのかどうなのか定かではありません。

私達が通常認識している色に関しても本来はどのような色を事物がしているのか定かではありません。
光の一定の周波数を分子が吸収し、それ以外の振動数は分子に吸収されず弾かれてしまいます。
反射したその振動数の違いで”赤”とか”黄”とか色を識別していますが、実際に対象物が本当に赤なのかどうかは、わかりません。
夜、電気を消せば、真っ暗でよく見えません。
本質的に色があるならば、暗がりの中でも色を識別できるはずです。

私達は肉体に基づく感覚器官の性質機能に依存した主観の世界で生活しているかもしれません。



法華経の信者達は『南無妙法蓮華経』を唱えれば救われると信じています。
法華経の信者さんと一般の人達は、間違いなく違う世界の中で生活しているはずです。
肉体の機能は同じであっても、対象を同じようには認識していないと思います。

そもそも日蓮聖人がいた鎌倉時代の人たちは、苦しく貧しい生活を強いられていたと思います。
ですから、南無妙法蓮華経を唱えれば救われるという教えも一種の方便としてあり得たと思えます。
苦しみを一時預けるという意味で役に立ったかもしれません。

しかし、鎌倉時代と現代とでは、時代背景が違うし、一般的教養を身につけているが現代人です。
ですから、南無妙法蓮華経を唱えれば救われると言われても、納得できないところはあります。

逆に南無妙法蓮華経で人生が変わると信じられるのであれば、それはそれでよいと思いますが、日本人には通じるとしても、世界の人達はどのように考えるのだろうかと推測しますと、そこには普遍性がないのではないかと思えます。

十八界という思想はどうでしょうか。
人間の肉体構造は、現代も数万年前もアトランティスの時代、ムーの時代も感覚器官を通じて事物を認識するという基本パターンは変わらないと思います。
ですから、数万年前も現代でも十八界という考え方は通じると考えます。
時代や大陸を超えて通じるという意味で、十八界の思想には普遍性があると言えます。

南無妙法蓮華経とはどのような意味でしょうか
南無は帰依する、身も心もささげるという意味です。
妙法とは、妙なる教え仏法を意味します。
蓮華とは、泥沼に咲く美しい花という意味でしょうか。
経とは教えです。

南無妙法蓮華経とは、あの泥沼に咲く美しい花のような尊い教え(仏法)に身も心もささげます、という意味になるかと思います。
意味を考えれば正しいことでしょう。
正しい仏法に帰依するということは、魂の進化という観点からしても正しい行為です。

しかし、正しい法に帰依するという意味である南無妙法蓮華経を、何回も唱えれば救われるというのであれば、意味が違ってきます。

仏法は広大無辺でありますから、最初の段階で三宝(仏・法・僧)に帰依する、仏を信じる信仰心は大切です。
しかし、それは唱えれば救われるというのであれば、間違っています。

なぜなら、仏法とは心の教え、心のあり方を仏に近づけるための修行であるはずですから、南無妙法蓮華経を唱えた数だけ救われるというのであれば、それは仏教ではないからです。

仏教が目指すべき方向性とは違うと思います。


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posted by ガンちゃん at 02:23 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月17日

霊的世界の階層と対応関係にある仏法

霊的世界の階層と対応関係にある仏法

『人間の本質は肉体に宿った霊的存在です。』

霊的存在という言葉に、どれだけ深い意味をつかむことができるかが、一つの悟りの目安になるのではないかと思います。

霊的感覚が通常の人よりあること自体に、悟りの高さと直接因果関係があるとは思えません。

源信(942〜1017)の『往生要集』を参考に、当会の教えと重なる部分を見ていきながら、霊的世界観について考えてみます。

最初は地獄の世界観が書かれていますが、これは実際にみてこなければわからない内容になっています。
想像や空想では、ここまでは書けません。

現代の日本人は地獄といっても、全く遠い世界の話で、昔の人が子供を躾けるための方便ぐらいにしか理解していないと思いますが、方便と思うか、死して後に現実世界として存在すると思うかで、地上生活での生き方が違ってきます。

もちろん、時間が流れているので、往生要集に書かれているとおりの霊界世界とは違ってきていると思いますが、基本的に人間の持つ欲望自体は変わらないと思いますので、現代でも参考になる重要な本であると、自分は考えています。

まず、地獄を八つに分類して描写しています。等活地獄、黒綱、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、阿鼻地獄とそれぞれの心の在り方と、生き方によって行く世界が違ってきます。
どの種類の地獄にしても厳しい世界であり、心の傾向で住む世界が明確に分類されているようです。

どの地獄に落ちるにしても、地上における苦しみの方がマシだと思えてくるぐらいに厳しい現実世界です。

伝道とは、地上こそがすべてであり、死ねば何もかもなくなるといった唯物論的な人達にきっかけを与えることでありますが、このようにも書かれています。
「自分がまだ彼岸に渡る力がなくて渡れないでいるのに、他人を渡すことはできない。
自分自身が泥に埋まっている状態で、どうして他人に教えよう。また、自分が水に漂っているのに人の溺れるのを救うことができないようなものである。それゆえに、自分が渡り終わってから人を渡すのが当然だと説くのである。」
自己確立をしつつ仏法を伝えることの大切さを説いています。

次に、餓鬼道、畜生道、阿修羅が描写されています。
地獄に落ちる一番の原因は、仏法で指摘されています貪りの心と不当な怒りの心です。

更に、地獄に落ちる要因として、過度の欲望もあるかと思います。
『止観』の引用で次のように書かれています。
「いまだ人間の不浄の真相を知らない時は、この世を貪り執着し、あるいは煩悩の虜となる。だが、いったん不浄のなんたるかを目撃したなら、愛欲の情はたちどころにやみ、耐えられないものとなる。ちょうど、糞を見ない時は食事もおいしいものだが、もしもその臭気を嗅いだなら、たちまちむかついて吐き出してしまうようなものだ」
「身の不浄を知ることは、淫欲の情の溺れる人間の病を癒すところの、すぐれて効果のある煎じ薬といえよう」

不浄観による修行です。

四苦(生・老・病・死)に関しても無常という観点から説明されています。
「地・水・火・風の四つの要素の結合からなるこの身は、まことに苦の連続である。悦楽に耽るべきものではない。生・老・病・死の苦しみはかならずやってくるもので、逃げかくれしてやり過ごせるものではない。
ところが、人は貪りの心のために、己を直視することができず、どこまでも五欲に執するのが一般である。ために、はかない存在を永遠のものと錯覚したり、楽しみではないものを楽しみであると思いこんだりするのだ。・・・省略・・・ましてや剣の山、火と燃える熱湯の池が、ようやくおのれの身辺に忍び寄ろうとしているのに。智慧のある者で、誰がいったいこの身を宝と観じて愛玩する者がいるであろうか。」

人間は死んでから地獄、天国に行くのではなく、すでに地上で生きていながら、心の中に天国・地獄が展開しているのであると教えられています。
肉体の欲望を完全否定することはできませんが、うまく調整することが大切だと教えていただいています。

また、「いまだかつて仏道にいそしむことを知らなかったゆえに、数多くの劫にわたって、いたずらに生死を繰り返してきたのである。いまにして勤め励むことをしなければ、未来もまた、同じ愚を繰り返すであろう。」

「仏の教えを受ける好機にめぐりあうことはまた難しいのである。たとえ仏の教えを聞く機を得ても、信心に至るのは、また難しいことなのだ。」


源信は自分の霊的体験を踏まえ、いろんな仏典を学びつくし体系的・段階的に仏法を説かれていると思います。
法華経がすべてであるとか、御経の部分だけ唱えればよいと言った考え方でなく、すべての仏典から知識を学び、自分の霊的体験と結びつけながら説かれている「往生要集」は大事な日本の仏典であると思います。




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posted by ガンちゃん at 23:39 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする