2017年12月12日

人間の精神性を破壊する唯物論 天使も地獄に落とす嫉妬心

人間の精神性を破壊する唯物論 天使も地獄に落とす嫉妬心

人間の魂を堕落させる考え方あるいは心情に唯物論があり、また、嫉妬心があります。

ベーコンは随筆集の「無神論について」で以下のように述べています。
「少しばかりの哲学は人間の心を無神論に傾けさせる。だが、哲学に深く入れば、人々の心は宗教の方にまた向かうことになる」。
「神がないという方が、都合がよいという人以外には、神を否定するものは誰もいない」

パスカルも神の存在を信じていたと思います。
パスカルは、どうしても神を信じることができない人たちに対して比喩を述べています。
「死後の世界、あるいは神が存在するか存在しないかは一つの賭けである。もし、死んだ後、霊的世界や神が存在しないで無になるのであればそれまでのことである。
しかし、もし霊的世界や神が存在していた場合、これは大変なことである。損得からいっても神を信じている方がよいでしょう」という意味のことを述べていたと思います。
しかし、損得で神を信じた方がよいというのはあくまでも方便であると自分は考えています。

唯物論が蔓延しますと人間はだんだん宗教から遠のいていきます。
苦労や逆境の時、人間は比較的神を信じ、また、宗教を信じることができます。なぜなら、自分の力ではどうすることもできない逆境の時、人間は大いなる存在にすがりたいという気持ちになるからです。

そして唯物論は人間の精神性、高貴性を破壊します。

もし肉体が人間の本質であり、すべてというのであれば、人間と動物の違いに大差はないでしょう。
人間の尊さは肉体にあるのではなく、肉体に宿っている精神、霊的自己にあるはずです。
それは神仏の本質と同じものだからです。
人間に、精神が宿っていなければ下等で卑しい存在になってしまします。



嫉妬はいつも相手と自分自身の比較と結びついています。
比較のないところで嫉妬ということはありません。
また、著しく徳性の高い人に対して嫉妬はおこらないものです。なぜならその幸福はそれらの人たちに対して、ただ当然のように思われるからです。

嫉妬する相手こそ自分の理想像です。しかし、相手に対して嫉妬することにより自分の理想像から離れてしまいます。
自分自身がより優れた存在になろうと思うからこそ、優れた人に対して嫉妬心が起きてくるものです。

しかし、単に嫉妬してしまったあとに来るものは何でしょうか。
相手に対しての否定的な考えです。
私はあのようになりたくないという思いと、憎しみの感情、憎悪と怒りの感情が増幅されていきます。

嫉妬の感情は他の感情に比べて、継続的でしつこいという特徴があります。

「嫉妬に休日はない」といわれるように嫉妬の心は本人から離れることがありません。
嫉妬すると人はやつれていきます。
また、嫉妬は悪魔の固有の特性であるともいわています。
「夜、小麦の間に毒麦をまく嫉妬深いもの」といわれるように、小麦のような良いものに害を与えていきます。

だからこそ、嫉妬は魂の傾向性そのものを変化される働きがあるのでしょう。

嫉妬心の継続性が、魂の傾向性を変化させ天使を悪魔に変化させるのほどの力が働くのでしょう。

しかし、逆に嫉妬心を克服することで魂は一段と成長すると思います。



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posted by ガンちゃん at 01:00 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月10日

まだ私たちが知らない愛があるかも・・・

まだ私たちが知らない愛があるかも・・・

「宇宙は神の愛によって創られたのです」
この言葉には、非常に大切な意味が含まれているように思えます。

宇宙の存在そのものが神の愛によるのであれば、すべては愛の一形態であるということでしょうか
様々な愛の在り方がありますが、すべては神の愛の部分を表現しているのでしょうか

愛の本質とは何か考えてみますと、上記の言葉から推測されることは「愛」とは根源のエネルギーではないかと思えます。
光と言い換えてもよいのですが、根源の神より流れてくる光エネルギーが高次元より流れて各次元の存在をあらしめているのかもしれません。
高次元から流れてくるエネルギーは神の慈悲であり、私たちの立ち位置からみると時間と呼ばれているものに対応しているかもしれません。
ですから、神の愛あるいは慈悲が流れなくなったとき、私たちは消滅してしまうでしょう。
私たちの魂が永遠不滅ということは、仏・神の慈悲によって生かされているということです。


ところでサタンといわれる存在たちはキリスト教の殉教が理解できず、彼らの立場から見れば気がくるっているとしか思えないようです。

殉教に込められている意味とは何なのでしょうか
それは、自滅覚悟による突進行為とは違うはずです。

自分の肉体生命より他者に対しての愛の思いが強いからこそ命を惜しまない行為、それが殉教なのだと思います。
愛の行為は勉強だけでは理解できません。
どうしても実践行為が伴わなければ、真実、人に対して優しくしなることはできないでしょう。
なぜなら、人は自分の苦しみや悲しみを通して相手の心の痛みを理解するからです。
スポーツでも格闘技でもなんでもそうなのですが、練習と実戦は違います。

いくら練習で空手の突きや蹴りを練習しようとも、実戦では相手も自分を攻撃してきますから練習通りにはいきません。
もちろん真理の探究・学習は大切です
これは人間としての基礎になるでしょうから、より正しく理解することが大切です。
しかし、実戦は学んだ通りにはいきません。
与える愛が大切であるといっても、最初からつまずいてしまいます。

生かす愛を学んでも,実戦で学んだ知識を愛に変換して行動に移せるかと言ったら、まず難しいでしょう。
イエスさまは、「汝の敵を愛し、迫害するもののために祈れ」とおっしゃいました。
はたして汝の敵を愛せるでしょうか。
この場合はまた、別の要素として善と悪の問題も含まれてくると思いますが、実戦を通さなければ、敵を愛することなど無理であると思います。

善悪を学び、相手が悪と思える中にも仏性を見ることができたとき、許すという気持ちが起きてくるのかもしれません。

悪い行いは、正義という観点からあるいは善悪の価値判断によって正していかなければなりませんが、一般的に悪い人間といわれるような人であっても仏性までは否定しないという考え方が大事なのでしょう。

相手の考えや行動が理解できないという点において、誤解や憎しみが生まれてくるのでしょう。
ですから、相手を理解しようとする努力が大切なのだと思います。
それには、多様な真理を学び相手の心理状態や心境、考え方を瞬時に理解する認識力が必要かもしれません。

イスラム教とキリスト教がお互いに敵同士だと考えている理由は、神の教えを正しく受け止めることができない人間側の理解の不足であるといわれています。

愛はすべてを一つにするというのであれば、宗教同士の争いを乗り越える懸け橋となるのが愛であると思います。

愛をどれだけ深くつかみ取ることができるかが、人間に与えられ目指すべき方向性であるということなのでしょう。


宇宙は神の愛によって創られたのであるならば、まだ、私たちが知らない愛の存在形態があるのかもしれません。


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posted by ガンちゃん at 10:16 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする