2018年02月24日

釈迦の本心 仏教的認識論を知る前段階としてのカントの時間と空間

カントの時間と空間

カントがいう時間と空間の意味とは、精神的意味のおける時間と空間です。
感性の直観的形式としての時間と空間、外界を感覚する際の、直観の根本形式としての時間・空間を意味していると思います。

ですから、カントは時間、空間を「精神の主観的な条件」「内観の形式」「直観形式」と述べています。

カントが考察した時間・空間は物理的な時空間とは違います。
時空間の本質を考えていたのではなく、人間の直観に対応する範囲での限定された時間・空間です。
人間の感性的直観では、時空間の本質を客観的に知ることはできません。

時間・空間の本質を知ろうとするならば、カントが認識できないとした物自体の世界に入り込んでしまいますのでそれほど深く考察する必要はないと判断したのかもしれません。

人間の直観は、時間・空間という規定された範囲の中に限定されていますので、カントは直観の根本形式としての時間と空間を考えたのだと思います。

人間の直観は、時間と空間に制約された範囲で働く以外にはありません。

対象を直観し次に何かを直観する時点で、すでに時間が経過しています。
人間は直観を得る時点で、すでに時間の経過と空間を想定せざるを得ません。

人間は同一時刻に同一空間において、複数の直観を得ることはできません。
人間の直観は、空間と時間の流れの中に、既におかれているといえます。

ですから、直観の根本的形式としての時間・空間がアプリオリ(先天的)にあると規定せざるを得ません。人間は時間・空間という枠組みを超えて、直観することは不可能です。
そのような意味でカントは空間・時間を直観の根本形式としたのです。

例えば、経験を超えた宇宙の誕生まで時間をさかのぼってその宇宙発生の原因を探求しようとも、人間理性はアンチノミー(二律背反)に陥ることになります。
ビックバンで宇宙が誕生したとも言えるし、宇宙はビックバンで誕生するわけがないとも言えるからです。

人間には直観できない(経験することができない)現象を超えた無限の世界に関しては、たとえその理念が実在したとしても、その理念は論証不可能であり客観的認識として語ることのできない根拠なき理念として却下されることになります。
なぜなら、論証できない理念は、妄想空想と区別がつかない夢想と同じ次元だからです。

カントが述べている時間・空間は、現象に対しての時間・空間であり人間が直観するときに従わざるを得ない精神的規定です。(直観のための主観的形式)

人間の理性認識では時間と空間の本質は知ることのできない限界であり、存在の根本原因を認識することは不可能です。

人間精神が時間と空間という規定に基づいて世界を見るからこそ、世界の現象は必然的に時間と空間という中で認識されることになります。

時間・空間は直観の主観的な条件であって、本質的な時間・空間という意味ではなく、あくまでも現象に対しての精神的規定であると述べていると思います。




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posted by ガンちゃん at 12:19 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

釈迦の本心 仏教の認識論を知る前段階としてのカント哲学

カント哲学

カントは、内面世界を理性・悟性・感性に分類しています。
一方、外面世界を物自体・物の現象面にわけています。
理性・理念 → 物自体
悟性・概念 → 現象(概念に対応)
感性・直観 → 現象(直観に対応)

理念は本来、無限の活動領域を持っています。
悟性概念は、物の現象に対しての概念認識をつかさどっています。
感性直観は、物(外界)の現象に接するときの直観に関わっています。

理性は悟性を内包し、悟性は感性を内包しているといえます。
注意
観念論哲学における理性と悟性の意味は、幸福の科学で使用する理性・悟性と対応関係にありません。
幸福の科学では、悟性が悟りの性質という意味で、心の領域においては最高の位置を占めていますが、観念論哲学では、理性が幸福の科学の悟性と対応関係があるといえます。

本来の理性、理念は物自体(事物の本質)を認識する無限の活動力を有しています。

しかし、人間の認識は感性、直観の試練を経たものでなければ客観的認識としての確証が持てません。

本来の理性認識は無限の活動力を有していますが、人間理性の認識は、正しい悟性概念を扱うときにのみ、正しい理性認識を生み、正しい悟性概念は、感性直観を経て(経験を通して)入ってきた悟性概念のみであります。

本来の理性・理念は無限の認識を有していても、人間は肉体的制約がありますので、人間が語りえる理性・理念の範囲は、感性的直観を通して経験できる、いわば世界の現象面に限られてしまいます。

経験を超えた理念を、人間は語ることはできません。
なぜなら、経験を通さなければ、根拠のない空想や妄想と区別することができませんし、アンチノミー
(二律背反)に陥ることになります。

肉体に基づく感覚器官は不完全であり、物の現象面(本質の一部)しか与えてくれません。
人間の感性では、事物の本質をすべて知ることは許されないのです。

プラトンによればイデアとは、時空を超えた非物質的な永遠の実在であり、真の実在といわれています。
イデアは学的な理性的認識の対象ですが、感覚的世界は不完全なより低い存在であり、感覚世界の個物はイデアを原型とする模像で、イデアを分かちもつにすぎません。
個物のイデアに対する関係は模像です。これがプラトンのイデア論になると思います。


人間の感性的直観には、事物の現象面しか与えられておらず、それを超えた物自体(本質)は経験することはできません。

ですから物自体に対応するプラトン的理念があったとしても、その理念は経験を通して与えられることは決してありませんから人間の認識として語る資格がないということになります。

非物質的理念、物自体、事物の本質は、人間の感性を通して感覚できませんから、客観的に証明は不可能です。
ですから、人間の認識は物の現象面を超えて語ることはできません。

人間の認識はまず、感性によって対象の現象面(本質の一側面)が直観として人間に与えられます。
この直観に対応する概念を、自らの内面に有している総合的概念から探り当てようとします。

この概念が、その現象に対応する概念(物自体の概念ではない)です。
直観自体が事物の現象面に限定された直観ですから、その直観に対応する概念も現象面に限定された概念であるはずです。

理性・理念は直観を通して得られた現象面における概念を統括しようとします。
現象に限定されているところの概念を統括する理性、理念のみが人間の知りうることのできる唯一の理念です。
それを超えた超感覚的、超自然的な理念、現象の外にある理念、経験を超えている理念が存在したとしても、そのようなものは人間にとって語ることが許されない根拠なき理念ということになります。
直観を持たない理念は、妄想、空想と変わらない理性です。
直観を通して得ることができない理念に関わろうとするならば、必ずアンチノミーに陥ることになります。
ですから、そうした領域に哲学は手を出すべきではない。
これがカント哲学の理論だと思います。

直観では対応できない、超感覚的世界は人間理性では対応できないので、哲学として扱わないとする立場が霊的世界の否定につながったと思われます。




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posted by ガンちゃん at 10:01 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする