2018年06月21日

仏教とギリシャの思想の共通性 思想の力で自分自身を変えることができるか

仏教とギリシャの思想の共通性 思想の力で自分自身を変えることができるか

仏教における旗印、三宝印は諸行無情・諸法無我・涅槃寂静です。

諸行無常とは「この世に存在するすべてのものは、流動していくものであり、変転していくもの、変化していくものです。変転変化こそが本質である」という考え方です。

無常とは、冷たいとか悲しいという意味ではなく、「常ならず」という意味で、恒常的なもの固定的なものは存在しないということです。
流動的な立場だからこそ、縁起の理法が成立するのです。
原因や条件によって人生や世界は変化していくということです。

諸法無我は、この物質世界は相互に依存関係にあり実体をもたない仮の存在です。
すべては夢幻であるとする考え方です。

すべての存在は恒常的なものでなく、その存在自体に滅びの性質が内在されています。
滅びはその存在自体にすでに備わっているものであり、滅びていくものと、新しく生まれてくるものは一体であり循環しているものであると考えます。
すべてのものは滅びていく存在であると同時に、新しく生まれ変わってくる存在でもあるので、自性なるもの、自らなる性質はないといえます。

仏教における諸行無常、諸法無我の考え方は、ギリシャのヘラクレイトスの思想に極めて近いと思えます。
ヘラクレイトスの思想は断片的で現在あまり残っていないようです。

ヘラクレイトス 前535頃〜475頃 ギリシャの哲学者
「なにものも有ることなく常に成るのみ、万物は流転する、万物は流れて止まらず」
「万物の根源は火である」というのが彼の思想の核心であり、また「万物は絶え間なく流転する」とも説きました。

プラトンはヘラクレイトスの複雑な思想のなかから、その核心をなすものとして「万物流転」を取り上げました。
プラトンによれば、ヘラクレイトスは、この世界に存在するすべてのものは、一瞬たりとも静止していることはなく、絶えず生成と消滅を繰り返していると主張したと述べています。
「諸君は同じ河に2度足を踏み入れることはできない。なぜなら新しい河水が、絶え間なく諸君に押し寄せてくるからだ。」
このようにヘラクレイトスは述べて、この世界に恒常的なものは何もないと主張したというのです。

プラトンはヘラクレイトスのこの思想を、自分の思想の中に巧妙にとりこみました。
つまり、感覚し得る世界には永遠なるものは何も存在しないということの証拠として万物流転の思想を利用しながら、他方では感覚を超えた知性的な存在としてのイデアを主張したのです。

たとえば火についても、それはアリストテレスが要約したような、静的な原理には留まりません。
火は始原的な要素であり、万物がそこから生じた元のものではありますが、それ自身が不変の実体といったものではなく、絶えず燃えながら変化しているものである。
「火は空気の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる」といった具合に、すべてが相互回帰的に循環しながら、流動している。
そこには、戦いのイメージがある。「戦いがすべてのものに共通して見られ、正義であることをわれわれは知らねばならぬ。」

この戦いのイメージは、戦いを通じての統一のイメージとも結びついています。
「対立物の統一」の思想です。
戦いにおいて対立物は調和であるところの一つの運動を生み出すべく結合する。
「万物から一が生じ、一から万物が生ずる」という言葉は、この絶え間なき運動の過程を象徴したものです。
ヘラクレイトスにとって世界とは、もろもろのものがせめぎあいつつ、その動的なプロセスのなかから調和したものや一なるものが生成される、そのようにイメージされていたのです。

統合する対立物というヘラクレイトスのこの思想は、やがてヘーゲルによって血肉化され、弁証法的な思想へと発展していくことになります。

仏教やギリシャ哲学、あるいはヘーゲルの観念論哲学は共通する部分が非常に多いと思います。
存在の本質は変化であるという点で感覚的なものを実体として観察していません。


このような思想の力によって、実際に私達の感情を統御し、心を調和することができるのでしょうか

セネカは怒りについて次のように述べています。
「怒りは厳に慎まねばならない。怒らせた者が同等の力をもったものであろうが、自分より強いものであろうが、自分より弱いものであろうが同じである。同等のものと争うのは危険な冒険だし、自分より強いものと争うのは狂気の沙汰だし、自分より弱いものと争うのは卑劣な根性である。噛みつかれたら、噛みつき返すというのは、哀れむべき小人のなすわざである。」

宗教を真剣に学び実践する人、哲学思想を学んだ者が、日常的なことで感情的になるようでは、学んだ教えが自分のものになっていないということになります。

宗教的な教え、哲学思想を学んだならば自分自身にその学んだ内容が反映されなければ、学んだ意味がありません。


学んだのであれば、その教えの内容を自分の中で整理しまとめあげて自分の意見として、外に向けて発信する必要があると思います。

自分自身の中に取り入れ、それを自分自身の意見として昇華し、外に向けて発信する、これは表裏一体です。

宗教的修行は、神へと通じる険しい道ですから、そこにはやはり努力精進が必要であると思います。


ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 03:37 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月17日

物質の振動と変化

物質の振動と変化


有名なアインシュタインのエネルギー式を置き換えると、エネルギーは質量に変化すると考えられます。

質量m.bmp
エネルギーを光速の二乗で割ると質量になります。


次にボーアの振動数条件式より

@
ボーア振動条件.bmp


En1は、電子のK殻の電子エネルギー、En2は、電子のL殻の電子エネルギーです。
En1とEn2の差額のエネルギーをプランク定数で割ると振動数がでます。

また波数V ̅は、(1pあたりの波の数)Cは光速、νは周波数


A
波数.bmp
A の式を@の式に代入します。

この式の答えは波数です。
エネルギー値であるEnをCh(光速×プランク定数)で割っています。
答えは波数であると考えられます。

アインシュタインの計算式は、エネルギーを光速の二乗で割ると、質量が出ました。
ボーアの式は、差額のエネルギーをプランク定数×光速で割ることで、波数が出ました。

質量と波数(波動)では、物自体が違うように感じます。
しかし、考え方を変えれば、質量や波動は本質的な違いなのではなく、本質的なものの現れ方の違いという考え方も可能かと思います。

先ほどの波数とは、1pあたりのという、条件付きの波動でした。
質量とは、一定の長さ(距離)をもつ波動ではないかと考えます。

仮に一定の長さを持つ波動の振動数が、人間の視覚ではとらえることができないほど高い振動数であれば、私達には波動には見えず、粒子に見えるのではないでしょうか。

質量が波動であり、一定の振動数によってその存在が決定しているという根拠は、素粒子の質量の単位にあります。

素粒子の質量の単位は、eX(エレクトロンボルト)です。
1個の電子が真空中で電位差1ボルトの2点間を運動するときに得る運動エネルギーです。
電圧が1Vでは素粒子の質量は1eXですから、使用目的によってeXの単位をVとして(単位を揃えて)使用することが可能です。

プランク定数は1Hz(1振動・1回転)の電圧値でありますから、素粒子の質量であるeXをVと見立てて、数値を1回転あたりの電圧値で割れば、素粒子の周波数(振動数)が出ます。

質量は素粒子からできていますので、物質とは波動的性質を有していたということになります。

私たちが存在する三次元物質世界とは、四次元以降に存在する霊的エネルギーが一定の振動によって、映し出された幻の世界であるかもしれません。

物質世界とは根源をたどれば波動なのですから、変転変化するのは必然であったのです。
波動は途中で停止しませんから、本質的には波動である粒子も常に変転変化する性質であるということです。

仏教的空の世界観に近いかもしれません。



ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 10:58 | Comment(0) | 物理・科学・宇宙論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする